にふじのブログ

わたしの「根っこ」

マウント

アザミの花言葉、報復

 

動物のドキュメンタリー番組を見たことがありますか?

 

野生の動物たちが群れをなし、狩りをして、過酷な自然環境を乗り越え、子孫を残していく。

動物たちなりの生きていくための知恵や、独特な生態がありますよね。

 

日本のものでも海外のものでも「群れ」を作る動物たちによくあるシーンで「リーダーの交代」があるかと思います。

 

群れの「リーダー」になる条件はその動物によって違うようですが、力でリーダーが決まる場合もあります。

 

 

 

 

兄がうさぎを虐待してから、今までより兄と距離を取るようになりました。

 

うさぎのことは両親には言いませんでした。

 

両親に言ったところで何も変わらないと思ったからです。

 

私は両親に期待はしていませんでした。

 

両親もまた、やはりというか、当然というか、突然いなくなったうさぎのことを聞くことはありませんでした。

 

 

 

それからしばらくして兄は中学生になりました。

 

その頃でも相変わらず両親は喧嘩をしていました。

 

 

ある日、いつものように喧嘩が始まりました。

 

私はいつも通りそこにいないものとして過ごしていましたが、その日の兄は違っていました。

 

今まで抑えていたものが溢れたのかもしれません。

 

 

殴り合う両親の間に入り、父の胸ぐらを掴むとそのまま壁に押さえつけました。

 

そして「うるせぇ!」と怒鳴り、父の顔を殴りました。

 

 

父は突然のことに反応できていませんでした。

 

動揺というか、驚きというか、父のそんな顔を見たのは初めてでした。

 

私も驚きましたし、母も驚いていたと思います。

 

 

 

 

そして私はその様子を見て

 

「あ、ボスが変わった」

 

と本能的に感じました。

 

頭で考え理解する、というより直感でそう感じました。

 

 

 

 

兄は決して体格がいい方ではありません。

 

部活は運動部に入っていたので多少力はあったかもしれませんが、身長も体重も女子では平均の私と変わらないくらい小柄でした。

 

それでも上下関係が変わったことははっきり分かりました。

 

 

 

それから両親の喧嘩は減りました。

 

なくなることはありませんでしたが、少なくとも兄の前では以前のような激しい喧嘩はしなくなりました。

 

 

 

その代わり今度は父ではなく、兄の暴力が始まりました。

 

 

いつの間にか

カンパニュラの花言葉 後悔

今回の話には動物を虐待する内容が含まれています。

また、動物が傷つく表現も含まれていますので、苦手な方は読み飛ばしてください。

 

 

 

 

 

 

 

小学校も5、6年生になると私は徐々に兄や近所の子たちと遊ばなくなりました。

 

特に何か理由があったわけではなく、学校の友達と遊ぶことが増えて自然と遊ばなくなったというだけです。

 

両親は相変わらず喧嘩をしていましたが、私たち兄妹も相変わらずそれを普通のこととして過ごしていました。

 

毎日変わらない日を過ごしていると思っていました。

 

 

ですが、いつの間にか兄は変わっていました。

 

 

 

私の通っていた小学校には飼育小屋がありました。

 

その飼育小屋はお世辞にも良い環境とは言えませんでした。

 

3畳ほどの小屋が2つあり、それぞれうさぎが約15羽と鶏5羽ほどが一緒に入れられており、食事は主に給食で残った野菜でした。

 

うさぎはオスメスに分けられていなかったので出産時期になるとたくさんのうさぎが産まれていました。

 

小屋の中ではうさぎと鶏が一緒にいるので、鶏がうさぎをつつき仔ウサギの中には死んでしまう子も多くいました。

親うさぎも目を突かれたり、耳をちぎられているような状況でした。

 

あとから聞いた話ですが、どうやらうさぎ同士でもかじり合ったりといったことがあったようです。

 

お腹を空かせてなのか、縄張り意識からなのか、理由はわかりません。

 

 

 

動物は好きでした。

でも、飼育小屋を見にいくことはあまりなかったような気がします。

 

小学生ながらあの飼育小屋のうさぎや鶏を見ると、良いイメージを持てなかったからかもしれません。

 

つまり私の「好き」は友達の家の猫や、お隣の犬のけんちゃんのような「幸せな環境で育った動物を見ることが好き」くらいのものでした。

 

 

そんな私に何のきっかけがあったのか、ある時飼育係の担当の先生から

 

「うさぎ、もらっていかない?」

 

と言われました。

 

今まであまり近寄りもしなかったのに「飼ってみたい」と思いました。

 

今考えると、とても軽はずみな事をしてしまったと後悔しています。

 

 

両親にも飼っていいかと聞きましたが不思議と反対はされませんでした。

 

と言うより、私のやる事なす事に興味がなかったのかもしれません。

 

とは言えうさぎとの生活は楽しかったです。

 

うさぎは元々警戒心の強い動物なので慣れるのに時間がかかりましたが、だんだん体を触らせてくれるようになったり、うさぎの方から膝の上に乗ってくれるようになっていました。

 

 

当時、一軒家に住んでいましたが、うさぎはリビングで飼って2階には行けないようにしていました。

 

一度階段を登り自力で降りられなくなっていて、危なかったからです。

 

家族も良い意味でうさぎを意識しているように感じました。

 

特に父の意識が少しうさぎに向かっているようでした。

 

父も家では暴力を振るっていましたが、会社ではチャボを飼っていたし動物自体は嫌いではなかったようです。

 

 

ある日、学校から帰ってきた時の事です。

 

私の家は玄関を開けるとすぐに階段があり、階段の一番上まで見える造りになっていました。

 

その一番上の段に兄がいました。

 

その前にはうさぎもいました。

 

私はうさぎが柵を越えて登ってしまったのかと思いました。

 

「仕方ないな」なんて思った瞬間、兄がうさぎを突き落としました。

 

一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。

 

すごい音を立ててうさぎが私の足元まで落ちてきました。

 

そしてそのままよろよろとリビングに逃げていきました。

 

 

頭の中は真っ白で、言いたいことはたくさんあるはずなのに言葉にできませんでした。

 

でも兄が階段から降りてきて、私の目の前まで来てやっと

 

「今の何?」

 

とだけ聞きました。すると兄は

 

「鍛えてやっている」

 

と。

 

意味がわかりませんでした。

 

ただ、もうこの家ではうさぎを飼えないということだけは理解しました。

 

 

私は里親を探しました。

 

以前、近所の子たちとうさぎの話をしていてそのうちの一人の子が飼いたいと言っていたのを思い出しました。

 

私はその子の家に行き、うさぎを飼えなくなったから貰ってくれる家を探していると言いました。

 

その子もその子のお母さんも快く引き取ってくれました。

 

私はなぜ飼えなくなったのか聞かれずにホッとしていました。

 

 

 

 

最初、私は兄の「鍛えてやっている」の意味がわかりませんでした。

 

目の前で起こったことが衝撃的だったのもあるかもしれません。

 

ですが、すぐに分かりました。

 

「この家で暮らすなら暴力に慣れろ」

 

「殴られて、蹴られて、強くなれ」

 

と言う意味だったのだと思います。

 

 

兄の中で「悪いことをした」という感情はなく、ただ純粋に「鍛えて、強くしている」という感覚でいたのだと思います。

 

それくらい自然に返事をしました。

 

 

兄の言った事、した事は間違っています。

 

ですが、私の家では強くなければ生きていけないという事は間違っていません。

 

 

 

兄はいつの間にか歪んでいました。

 

そして、兄の言葉を理解できてしまった私もまた、歪んでいました。

 

 

信用

ラベンダーの花言葉、不信感

小学生の時、私は勉強は好きではなかったし、成績も悪かったけれど「先生」に気に入られたくて「いい子」でいようとしていました。

 

気に入られたいと言うより認めて欲しかったのかもしれません。

 

親がだめなら、代わりの大人で埋め合わせをしようとしていたのかもしれません。

 

今考えれば幼稚な発想だったと思います。

 

 

 

小学校5年生の時のことです。

 

ある日、突然学級会が開かれました。

 

本来であれば帰りの会の時間でした。

 

先生は厳しい顔をして教室に入ってきました。

 

私は明らかに怒っている先生の顔を見て嫌な感じがしました。

 

先生は私たちを席につかせると静かに話し始めました。

 

先生の話した内容はこうです。

 

 

私たちクラス全員が一人の生徒を「いじめている」と。

 

どうやらその子が自分のお母さんに相談し、その子のお母さんから先生にどういうことかと学校に連絡があったようです。

 

 

その子の話によると「いじめ」は以前からあって、ことあるごとにからかわれ皆から笑われていた、とのこと。

 

そして先日、気に入っていたヘアゴムを学校につけていったところ、それもまた笑われて学校に行くのが嫌になったそうです。

 

先生がその子に誰がそんなことをしたのか聞いたところ、クラスの生徒のほとんどの名前が出たそうです。

 

 

 

この時点で私たちは意味がわからず混乱していました。

 

みんなあちこちで顔を見合わせて「何のこと?」という顔をしていました。

 

すると先生は持っていた学級日誌で思い切り教卓を叩いて「静かにしなさい」と怒鳴りました。

 

教室は静まり返りました。

 

 

それから先生は一人ずつその場に立たせ質問をしました。

 

「なぜあの子のヘアゴムを笑ったりしたのか?」

 

「なぜあの子をいじめたりしたのか?」

 

 

最初に立たされた子も何のことなのかわかっておらず、何とか

 

「…知りません」

 

と答えました。

 

すると先生にまた火がつきました。

 

「知りませんじゃない」

 

そう言ってまた机を激しく叩きました。

 

離れた席に座っていた私にもその子の肩がビクとなったのがわかりました。

 

そしてその子は小さな声で「…すみませんでした」と言い直しました。

 

先生はそれで満足したのか次の生徒を立たせました。

 

 

クラスのほとんどが最初の子を見て、これは何を言ってもダメだと感じていました。

 

次の子も、その次の子も大人しく「すみません」と言い、先生は「次、立ちなさい」と繰り返しました。

 

 

ですが中には最初の子のように「知りません」と答えた子もいました。

 

聞いている私たちはヒヤリとしましたが、先生はその子を怒りませんでした。

 

単純な話ですが、たぶんその子の名前はリストになかったのだと思います。

 

他にも何人かそういう子がいました。

 

 

その子達を見ながら私も「違う」とはっきり言えばわかってもらえると思いました。

 

「いじめられた」と言った子とは話した事もほとんどなかったし、ヘアゴムを笑った覚えもありません。

 

そもそもつけていることすら気づいていなかった上に、クラスの誰かがそれを笑っているところを見てもいませんでした。

 

私の中で「いじめはしていない」という思いがありました。

 

 

そして順番が回ってきた時、私は「知りません」と答えました。

 

ですが先生は怒りました。

 

「あなたにヘアゴムを笑われて、どれだけあの子を傷つけたのかわかっているのか」と。

 

私は私に対して怒りをぶつける大人が怖くてそれ以上何も言えませんでした。

 

ですが、ここで謝らないと先生の怒りは収まらないだろうと、一言「すみません」と言いました。

 

先生はさらに続けました。

 

「何にすみませんと言っているのか」と。

 

私は何にも「すみません」とは思っていませんでした。

 

あの子にも、先生にも。

 

ただ早くこのピリピリとした時間を終わらせたくて

 

「笑ったかもしれません。すみませんでした」

 

と嘘を言いました。

 

先生は教卓をバンバン叩きながらさらに怒りました。

 

「かもしれないとはどう言うことか。きちんと認めなさい」

 

そんな事を叫んでいたような気がします。

 

 

だけどあの時私は何を言えばよかったのでしょうか。

 

先生は「知らない」と言う私の言葉を聞いてはくれなかったし、あの子を笑ったと決めつけていました。

 

最初から話を聞く気のない人に何を言っても通じなかったでしょう。

 

 

クラス全員を怒って先生が教室を出て行った後、みんなが自然と集まって「心当たりがあるか」という話になりました。

 

誰も、何の心当たりもありませんでした。

 

 

さらにその学級会の後、その子の家に謝りに行くように言われました。

 

どういう基準で選ばれたのかはわかりませんが、私を含め数人でその子の家に行き、その子とその子のお母さんに頭を下げました。

 

子供ながらに屈辱でした。

 

 

 

先生の立場からすれば自分のクラスでいじめがあったなんて問題になるでしょう。

 

保護者からも連絡があれば焦る気持ちもわからなくはないです。

 

本当のところはわかりませんが、ただ純粋にいじめにあっている生徒を救いたいという気持ちから周りが見えなくなっていただけなのかもしれません。

 

私もいじめには反対です。

 

ですが、一方の意見だけを聞いてもう一方の意見は聞かないというのは子供ながらにおかしいと思いました。

 

みんな内心「自分はやっていない」と思いながら、謝りました。

 

ですが先生は私たちではなく、あの子を信用しました。

 

私は先生に気に入られたくて「いい子」の振る舞いをしていましたが、結局は先生の信用に足らなかったようです。

 

 

そしてこの「いじめを受けている」と言った子ですが、この騒動がきっかけになったのか、その後卒業するまで度々警察のご厄介になっていました。

 

学校の近くに大きなスーパーがあったのですが、そこに停めてあった自転車のタイヤに釘を刺してパンクさせたそうです。

 

1台や2台ではなく数十台単位です。

 

あまりにも数が多かったので警察が巡回していたところ現場を押さえられたそうです。

 

他にも別のスーパーで何度も万引きを繰り返したそうです。

 

 

彼女が何を思って、どう言う理由があったのかはわかりません。

 

手段は間違えていると思いますが、もしかしたら彼女も私が先生に対して「いい子」の振る舞いをしていたように、誰かの気を引きたくてそんな事をしていたのかもしれません。

 

そして気を引く、ということだけを言えば彼女は成功しています。

 

自分の行動で親も、先生も、警察の気も引いていたので。

 

 

私はというと、それでも「先生」に対して「いい子」でいようとすることをやめられずにいました。

 

もしかしたらまだ両親以外の大人に何かを期待していたのかもしれません。

 

ただ、「認めてもらいたい」という気持ちは無くなっていました。

 

その代わり「私は無害な人間です」とアピールする方向に変わっていました。

 

 

他人から怒りをぶつけられる事を避けるには、自己主張をせず、当たり障りのない人間でいることが安全なんです。

 

 

似たもの夫婦

鳳仙花の花言葉、短気


 私たち家族にとって父は地雷でした。

 

神経質なので怒らせないように、というのが暗黙のルールでした。

 

 

父はヘビースモーカーで、毎日タバコを2箱空けていました。

 

そのために私は学校の先生から「タバコを吸っているだろう」とよく疑われていました。

 

ですがそれは大した問題ではありません。

 

それよりも父が静かにタバコを吸っていることの方が問題でした。

 

嵐の前の静けさ、といえば分かりやすいでしょうか。

 

こういう時は父が自分の中で怒りを溜め込んでいる時でした。

 

そんな時、私たち兄妹はとにかく静かにしていました。

 

ですが母はあまり空気の読める方ではないので、あのピンと張り詰めた空気でも構わず話しかけていました。

 

内心「あーあ…」なんて思っていると案の定、怒鳴り声が響き、拳が振り上げられます。

 

 

このように父はいつでも神経を尖らせていました。

 

 

これは家の中だけでなく、他人のいないところ、例えば車の中でもそうでした。

 

 

法事で帰省する際は父の運転する車で移動していましたが、とにかく父を刺激するのを避けていました。

 

私たち兄妹はいつも後部座席に座っていましたが、ある時バックをする際に「頭を下げろ。後ろが見えない」と怒鳴られました。

 

それから私たちは後部座席と前の座席との間に体を潜り込ませてうずくまっていました。

 

 

 

ですが大人になって運転するようになってから思いました。

 

後部座席に小学生の子供が座っていたからといって、バックの邪魔にならないということに。

 

バックミラーにもほとんど映り込まないし、リアガラスも見えなくなるわけでもない。

 

 

 

父がまとっていたあのピリピリと張り詰めた空気は一体なんだったのでしょうか。

 

会社での不満だったのか、私たちに対する不満だったのか。

 

 

いずれにせよ不満があるのなら会社を辞めるなり、離婚するなりなんらかの対策はあったと思います。

 

それをせず、暴力、暴言に走ったのは父の未熟なところだと思います。

 

 

そして、もしかしたら父も母と同じように世間体を気にしていたからこそ怒りの矛先を私たちに向けていたのかもしれません。

 

 

家族旅行

ピンクのバーベナの花言葉、家族の和合


 

基本的に私の家に家族旅行というものはありませんでした。

 

盆も正月も帰省することなく、家族揃ってどこかへ出かけるといえば法事だけでした。

 

父もまた実家があまり好きではなかったようです。

 

唯一その点においては父も母もお互い理解しあっているようでした。

 

 

 

小さい頃、一度だけ母が泊まりがけの旅行に連れて行ってくれたことがあります。

 

法事でもなんでもない、観光旅行です。

 

確か小学校1年生くらいだった気がします。

 

その頃はまだ母も私たち兄妹に何かしなくてはという思いがあったのかもしれません。

 

 

 

連れて行ってくれたのは隣県にあるお城です。

 

藤棚の見事なところだったのを覚えています。

 

ただそこに父の姿はありませんでした。

 

理由はわかりません。

 

仕事が忙しかったのか、ただ私たちと一緒にいたくなかったのか。

 

 

 

そして観光を終え、民宿に着いた夜に何故か母が父に電話しようと言いました。

 

民宿にあった公衆電話に10円玉を入れる母を見ながら、これまでもまともに話してこなかった父と一体何を話せばいいのかと考えていました。

 

最初は母が電話をかけて、すぐに兄に代わりました。

 

兄も二言三言話してすぐに私に順番が回ってきました。

 

私は当たり障りないようお城を見たこと、藤棚を見たことを話しました。

 

父は特に何も思っていないようでした。

 

「あぁ、そう」

 

その言葉の後、電話を切ると使い切れなかった10円玉がジャラジャラと戻ってきました。

 

 

母はまだこの頃は関係を修復したいと思っていたのかもしれません。

 

また、そうできると思ったからこそ電話をしようと言い出したのかもしれません。

 

 

しかし自分の意思で家族旅行に参加しようとしない父に何を言っても響くものはありませんでした。

 

 

 

そして、私にも寂しいという感情はありませんでした。

 

だって相手は父ですから。

 

父親とはそういうものだとなんの疑問も持っていませんでした。

 

 

幸せを比べる母

マリーゴールドの花言葉、嫉妬

 

母のすぐ上の兄は大学まで出て、結婚し、その子供である私の従姉妹2人は結婚し割に裕福な生活を送っているそうです。

 

そして叔父は、義理の息子からお小遣いやスマホの料金まで支払ってもらうなど生活の援助をしてもらっていると言っていました。

 

ただ、叔父はその代わりにまだ幼い孫たちの送り迎えなどをして、娘や、義理の息子が忙しい時には一緒に遊んであげたりもしているそうです。

 

 

 

聞くところによるとこの叔父という人は、容量が良くてお調子者で、でもどこか憎めないような人だったようです。

 

実際この叔父は会社のお金を横領し、ギャンブルにつぎ込んだ過去があります。

 

金額は数百万単位だったそうです。

 

結局、叔父は一番上の兄から借金をし会社に返済はしたようです。

 

会社の方としても叔父なら仕方ないか、と内々に片付けてくれたようです。

 

 

 

そして叔父は夏休みになると自分の子供たちを実家に預けていたようでした。

 

どういう経緯で、どれくらいの期間なのかはわかりませんが毎年そのようにしていたそうです。

 

二人の従姉妹たちは自然の多い母の実家でのびのび遊んでいたようです。

 

 

 

母の言い分としてはこうでした。

 

自分は中学までしか行っていないのに、兄だけが大学に行っていてずるい。

 

娘二人もいい所に嫁いでいてずるい。

 

自分はお金も借りずに貧しい生活をしているのに、実兄に借金をしてそのお金を今だに返していないことがずるい。

 

そして自分は私たち兄妹を預けていないのに、自分だけが預けるなんてずるい。

 

 

 

この話は成人した後に聞いた話ですが、「ずるい、兄はずるい」と私にしきりに言っていました。

 

特に私たち兄妹を実家に預けなかったことをとても悔しがっていました。

 

兄が自分の子供を預けていることを知っていたのなら自分だって預けた。

 

そんなふうに言っていました。

 

 

 

どうやら私たち兄妹は完全にお荷物だったようです。

 

 

いくら私が大人になっているとはいえ、自分の子供にこんなことを言うなんてとても母らしくて無神経だなと改めて思いました。

 

 

 

兄の優しさ

スイカズラの花言葉、兄弟の愛

 

兄とは本当に男兄弟のようにして育ちました。

 

一緒に遊べばそれだけよく喧嘩もしました。

 

年子だったし、男の子グループにいたので喧嘩も結構荒っぽかったです。

 

ですが私を男の子グループから外そうとはしませんでした。

 

周りの男の子たちもそうでした。

 

そして喧嘩をしても次の日には一緒に遊んでいました。

 

 

 

小学校3年生の時に足の骨を骨折したことがあります。

 

その時は兄たちとは一緒に遊んでいなくて、学校の友達と遊んでいました。

 

基本的に遊び方が荒っぽかったので、怪我も珍しいことではありませんでした。

 

この時も鬼ごっこをしていて、鬼から逃げている時に滑り台を滑らずに駆け降りました。

 

そして右足が地面についたのと同時に体をひねったら右足の脛の骨がねじれました。

 

ねじり骨折というそうです。

 

 

怪我をしたのが学校だったので両親にも連絡が行き、近くの整形外科に一週間入院することになりました。

 

父を見たのはその日だけ。

 

一応は保護者なので、学校から連絡がきたら行かないわけにはいかなかったのでしょう。

 

母はその日だけ病院に泊まりましたが、パートもあるのでその後は来れる日だけ面会に来ました。

 

 

そして兄は毎日お見舞いに来てくれました。

 

学校の近くにある駄菓子屋さんに寄ってお菓子をいくつも買ってきてくれました。

 

その中からゼリーのお菓子をとって、看護師さんに私がお菓子を食べてもいいかを聞いてくれました。

 

 

 

今にして思えば、兄なりに病院なので勝手にあれこれ食べさせられないと思ったのだと思います。

 

そして、たくさん種類があったのは、食べてもいいものと食べてはいけないものがあるかもしれないと思ったからだと思います。

 

 

私たちは看護師さんから「いいよ」と許しをもらって、病室で一緒にお菓子を食べました。

 

特に何かを話すわけでもありませんでした。

 

ですが、兄も同じことを思っていたかもしれません。

 

 

私は病院にいれば両親の怒鳴り声を聞かなくていいのだと思ったことだけは覚えています。