気づかなかった優しさ
お隣に50代後半くらいのご夫婦が住んでいました。
いつからだったか私たち兄妹はよくそのお宅にお邪魔していました。
お隣の家には新しいゲーム機があって、ファミコンもあったし、スーパーファミコンもありました。
ソフトもたくさん揃っていました。
近所の子でゲーム機を持っている子もいたけれど、ここまでは多くありませんでした。
旦那さんは大抵仕事でいない事が多かったけれど、奥さんは専業主婦のようで家にいる事が多かったです。
奥さんは私たち兄妹に
「遊びにおいで」
とよく誘ってくれていました。
私たちも流行りのゲームもできるし、お菓子も出してくれるし、うれしいばかりでした。
それから夏休みになったら映画にも連れて行ってくれました。
夏休みになると上映する子供向けのアニメ映画を見に、遠くの映画館まで連れて行ってくれてパフェまで食べさせてくれました。
それまで映画館に行った事がなくて、とてもワクワクしていたのを覚えています。
ご主人もあちこち連れて行ってくれました。
ご主人は公務員で記念祭なんかがあると必ず誘ってくれていました。
それからそのお宅では柴犬を飼っていました。
名前はケンちゃん。
私が学校から帰ってくると吠えもせず、いつも尻尾を振って迎えてくれていました。
私はそんなケンちゃんが可愛くて、いつも撫でさせてもらっていました。
私は全部含めてお隣さんが大好きでした。
だけど大きくなってから、ふと思いました。
どうしてお隣の奥さんが私たち兄妹に「遊びにおいで」と言ってくれていたのか。
子供が好きだった?
確かにそれもあるかもしれません。
ご夫婦には私たちより少し下のお孫さんがいました。
徒歩で行けるほど近くに住んではいましたが、そんなにご夫婦の家には来ていなかったようです。
もしかしたら少しお孫さんの代わりのように感じてくれていたのかもしれません。
なぜあんなにたくさんのゲーム機やソフトを持っていたのか?
お孫さんが来た時のために準備していたんだと思います。
大抵の人にとって孫は可愛い存在です。
でもそれはお孫さんのための物だったはずです。
私たちにわざわざ使わせなくてもよかったはずです。
それに、なぜ映画に連れて行ってくれたのか?
なぜ記念祭に連れて行ってくれたのか?
なぜお孫さんではなく私たち兄妹だったのか?
子供の頃にはそれらのことに何の疑問も持ちませんでしたが、考えているうちに気がつきました。
毎晩あれだけ大声を張り上げて怒鳴り合い、物が壊れる音がしていれば隣近所には全て筒抜けだったと思います。
本当に塀を隔てて隣に住んでいたので聞こえていなかったはずがありません。
ご夫婦がしてくれていたことは優しさでした。
私たち兄妹だけでなく、母にもよく声をかけてくれていました。
苦情を言われたことも一度もありませんでした。
そんな優しさに気づくことなく大人になってしまい、お礼の一つも言いませんでした。
兄と私の違い
母には「男の子を産んだ」というプライドがありました。
母の出自は九州の田舎で、本当に山奥でした。
8人兄弟の末っ子で母の兄弟のほとんどが結婚し、授かった子供たちは皆女の子でした。
そんな中、母だけが唯一男児である兄を産みました。
母はそのことを誇りに思っているようでした。
ですが私にはその事がよく理解できませんでした。
母の実家は確かに田舎でしたが、特に閉鎖的な空気も、女系の家系であることに否定的な空気も感じませんでした。
確かに親戚からは
「結局男の子はお前(母)のところだけだったなぁ」
「跡継ぎができて良かったなぁ」
なんて言われていましたが、そこに特別深い意味を感じる事はありませんでした。
ですがそう言われる母はやはり嬉しそうでした。
母にとって兄は最初の子供ですし、母なりにきちんとしようと考えたのかもしれません。
地域の子供会にも参加させていましたし、習い事も積極的にさせていました。
子供会という集まりがどういう所なのかよく分かりません。
確か地域でお祭りなどの行事があるときに、参加する子供たちがお神輿を担いだりしていたように記憶しています。
このように曖昧なことしか言えないのは私がその子供会に入っていなかったからです。
一緒に遊んでいた子達も参加していました。
私も母に頼んだ事がありましたが
「お兄ちゃんが入っているから、(私は)入らなくていい」
とのことでした。
お祭りの時期が近づいてくると、私は兄たちが準備のために公民館に入っていくのを見ているだけでした。
ただ、習い事は1つだけさせてもらえました。
個人で書道教室を開いた先生が
「娘さんも一緒にどうですか」
と言ってくれたようです。
私の家の事情は知らなかったと思います。
ただの勧誘だったのかもしれません。
それでも兄と同じ習い事ができることが嬉しかったです。
夕日の思い出
私たち兄妹はとにかくよく外で遊びました。
普通の日でも夏休みになっても家にいる時間は少なく、ずっと外で遊んでいました。
私はただ友達と遊ぶ事が楽しかった、というのもありましたがそれより家にいなくていい口実が欲しかったのかもしれません。
夏休みともなると朝から近所の公園でラジオ体操が始まるんですが、それより1時間も早く行って遊んでいました。
私の子供の頃はラジオ体操のスタンプ帳のようなものがあって、体操をしたらその日の担当の方が「きちんと体操をしましたよ」の印にハンコを押してくれていました。
私たちはいつも一番乗りで行っていたので
「早起きでえらいねぇ」
なんて言われていました。
そして家では食事をするだけして、すぐに遊びに行き夜に寝るために帰ってくる。
そういう生活をしていました。
こんな事をしていても両親は何も言いませんでした。
「もっと勉強をしなさい」も「早く帰ってきなさい」も。
夕方も遅い時間になってくると友達の家からは声がかかるようになります。
「ご飯だよ。帰ってきなさい」
そうやって一人、二人と抜けていって最後に残るのはいつも声のかからない私たち兄妹だけでした。
いつものように最後に残ったある日、私たちは公園へ行きました。
公園のザイルクライミングというロープでできた塔のような遊具の一番高いところに登って、大きくて真っ赤な夕日を見ました。
空も真っ赤に染まって薄く紫がかかっていました。
二人で夕日が沈むまでただ黙って眺めていました。
後にも先にも一緒に夕日を見たのはその日だけです。
ごっこ遊び
子供の頃はよく兄にくっついて外で遊んでいました。
隣に小さなマンションがあって、そこに同じ年代の子が結構いたんです。
女の子もいたけれど私はどちらかと言うと、兄のいる男の子グループで遊ぶ事が多かったです。
一緒に「けいどろ」をしたり虫取りに行ったり。
男の子ばかりだったから結構危ない遊びもしていました。
そうやって夜遅くまでずっと遊んでいました。
男の子グループにいたのは兄がいたから、というのもあったかもしれません。
だけど別に女の子グループが嫌だったわけじゃないんです。
仲が悪かったわけでもないです。
ただ、女の子グループの遊びがあまり面白く感じなかっただけだと思います。
女の子グループの遊びには大抵「お人形」がいます。
「お人形」で何の遊びをするかというと、「ごっこ遊び」です。
家族ごっこ。
人形を着せ替えたりして、家族の誰かの役になってドールハウスでお話をします。
一緒に食事をして、TVを見て、他愛のない話をします。
私には何が楽しいのかよく分からなかったんだと思います。
一緒に食事をすれば皿が飛ぶ。
一緒にTVを見れば拳が振り上げられる。
他愛のない話はした事がない。
私には一生ごっこ遊びの楽しさを理解する事ができないと思います。
母が諦めたもの
母は無関心な人でした。
だけど毎日食事は作ってくれていたし、幼稚園の送り迎えもしてくれていました。
家は裕福ではなかったのでパートで働きにも出ていました。
父は王様なので当然、家事育児に参加はしません。
そして毎晩の激しい喧嘩で、それ以上はできなかったんだと思います。
普通は学校でこういうことがあったとか、学校の友達とこんなことをしたというような会話があるのかもしれないが、そういったことは一切ありませんでした。
母も聞かなかったし、私も話しません。
成績表を見せても判を押すだけです。
中身は「もっと頑張りましょう」ばかりだったけれど何も言われることはありませんでした。
怒ることもしないし、褒めることもしないし、ただ毎日をこなしているという印象でした。
ただ、兄に対してだけは熱心でした。
小学校2年生の時だったと思いますが、一緒に九九の勉強をしていました。
自宅の階段を使って一の段を全部言えたら一段上がる、を繰り返して一番上の段まで登るまでがゴールでした。
その様子を見て、私も兄と同じ歳になったら一緒にするんだろうな、とぼんやり思っていました。
ですが私とする事はありませんでした。
私も理由は聞きませんでした。
今ならなんとなくわかります。
人間1日でできる量は限られています。
何かを諦めないと疲れて参ってしまうのは自分自身です。
おとなしい虎
子供の頃に父と話をした覚えがありません。
いつ、どんなきっかけで父の癪に触ってしまうか分からなかったからです。
触れれば切られる、そんな雰囲気がありました。
それでも何度か話しかけようとした覚えはあります。
ですがその度に鋭い視線を向けられて
「…なんでもない」
そう言うだけで精一杯でした。
一方で、母方の法事で帰省した際、親戚みんなで一緒に食事をした時のことです。
皆明るくわいわいした雰囲気の中で、父は普段私たちに見せたことがないような柔らかい笑顔で相槌を打ちつつ、おとなしく食事をしていました。
その時に何かのきっかけで生まれ年の話になりました。
寅年生まれの父は親戚から
「おとなしい虎だね」
「虎というより借りてきた猫みたいだなぁ」
「あんた(母)の旦那はおとなしくてうらやましい。うちのはもう、あれこれうるさくて…」
そう言う親戚に私は内心ヒヤヒヤしていました。
冗談と言えど、もしかしたら父が怒り出してしまうかも知れません。
ですが父は怒ることもなく笑っていました。
そして帰りの車の中で「おとなしい虎」は激昂していました。
「お前(母)の所の親戚はうるさい」
「これだから嫌なんだ」
車の中という密閉された空間で、家に辿り着くまでの3時間はただ黙って流れる景色を眺めていました。
法事以外で一切帰省しなかったのは、こういった付き合いをしたくなかったからなのだと後になって分かりました。
チャボ以下の存在
ある日、父の会社の同僚が家に来たことがありました。
夕食時だったので私たち家族も一緒に食事をする事になりました。
父は親戚の経営する会社に勤めていたんですが、同僚の方の話を聞いているとどうやら普段私が見ている父と、会社での父は違ったようです。
同僚の方は母にこう言っていました。
「ご主人にはいつも気にかけてもらって助かっています」
「差し入れなんかもよくしてもらって、毎日のようにコーヒー奢ってもらってます」
誰の話をしているのかと思いました。
単なる社交辞令かも知れませんが、それでも驚いたのを覚えています。
そして、そう言われた父を見ると得意満面といった様子でした。
さらに同僚の方は私にもこう言いました。
「お父さんはね、会社でチャボを何匹か飼っているんだけど、そのチャボがすっごくお父さんに懐いているんだ」
「会社では放し飼いにしているんだけど、どんなに遠くにいてもお父さんが『おーい!』って言ったらみんなお父さんのところに集まってくるんだよ」
「お父さん以外の人が呼んでも来ないんだよ」
それを聞いて子供ながらに
「この人、生き物の世話をするんだ」
と思いました。
父はますます楽しそうにビールを飲んでいました。
どうやら父にはチャボに注ぐ愛情はあっても、私たち家族に注ぐ愛情は持ち合わせていなかったようです。
父にとって私はチャボ以下の存在でした。