にふじのブログ

わたしの「根っこ」

人の裏の顔

赤いヒヤシンスの花言葉、嫉妬

 

小学校の時、同級生の子から石を投げられたことがあります。

 

投げられた石はそこまで大きくはありませんでした。

 

片手の親指と人差し指で丸を作ってみてください。

 

それくらいの大きさです。

 

 

確か小学校の2年生くらいだったと思います。

 

クラスで、というか私たちの学年で一番可愛くて人気者の子がいました。

 

仮にAちゃんとします。

 

私はその子と同じクラスでした。

 

彼女は絵がとても上手で、休み時間にはたくさんの友達が彼女の机を囲んでいました。

 

私は何がきっかけだったのかはよく覚えていませんがその子と親しくしていました。

 

席も離れていて、休み時間になると彼女の周りにはいつも他の子達がいたので学校の中ではほとんど話していませんでした。

 

ですが帰るときはいつも一緒でした。

 

帰る方向は途中までは一緒でしたが、どちらかが少し遠回りしてどちらかの家に着くまで二人で一緒に帰っていました。

 

そしてそのまま一緒に遊んで帰ることも多かったです。

 

 

ですが、そのことをあまりよく思っていない子がいました。

 

この子のことはBちゃんとします。

 

私たちが二人で帰ろうとすると必ず一緒に帰ろうと言ってきていました。

 

別に不思議には思いませんでした。

 

それはAちゃんとBちゃんの家が近かったからです。

 

そしてBちゃんも絵を書くのが好きで、昼休みはAちゃんのグループにいたからです。

 

ですが3人で話していると、いつの間にか私は会話に入れなくなっていました。

 

それでも変わらずAちゃんは一緒に帰ろうと言ってくれていました。

 

ですが、ある時Aちゃんの家まで一緒に帰った後、Aちゃんとはそこで別れて私とBちゃんだけで帰ることになりました。

 

会話はあまりなかった気がします。

 

そしてBちゃんの家の前まで来てバイバイと言おうとしたら、彼女がポケットに手を入れ、そのまま私に向かって振りかぶりました。

 

直後、左の頬骨と目の間あたりに痛みが走っていました。

 

一瞬何が起こったのか分からなくて呆然としていましたが、足元に転がった石を見てBちゃんが石を投げたのだとわかりました。

 

Bちゃんはそのまま家の中に入っていきました。

 

私はしばらく立ち尽くしていました。

 

 

翌日、顔にはやはり跡が残っていて、Aちゃんにどうしたのと聞かれました。

 

「よく分からないけれど石を投げられて…」と説明すると、職員室に連れて行かれました。

 

先生から事情を聞かれ、Bちゃんも呼ばれました。

 

 

 

 

どうやら嫉妬だったようです。

 

自分よりAちゃんと仲良くしている私が気に入らなかったとのことでした。

 

先生はBちゃんに謝るよう言いました。

 

Bちゃんは素直に謝りました。

 

 

ここで話が終われば良かったのですが、その後Bちゃんは私と距離を詰めてくるようになりました。

 

何かというと話しかけてきたり、帰りもAちゃんと別れた後、話しかけてくることが多くなりました。

 

自分の将来の夢は絵本作家になることで、今こういうのを書いているの、と作品を見せてもらったことも覚えています。

 

水彩絵の具で描かれた作品はどれも優しいタッチのものでした。

 

 

ですがそれが余計に怖かった。

 

こんなに優しげな作品を描くのに、一方的な嫉妬で人の顔に石を投げてくる神経が理解できませんでした。

 

 

それから私はAちゃんともBちゃんとも一緒に帰るのはやめました。

 

そして、そのことがあってから私はなるべく目立たないように、クラスの人気者と呼ばれる人には近付かないようにしました。

 

 

理不尽な暴力にはうんざりです。

 

 

母を写した鏡

オトギリソウの花言葉は恨み

 

私が生まれた時、祖父母といえばすでに母方の祖母だけしかいませんでした。

 

法事の時に数回会う程度でしたが、至って普通の人だと感じました。

 

私たちが帰るときはティッシュにお札を包んで渡してくれて

 

「ちょっと少ないけど、これ。またおいで」

 

と言ってくれました。

 

 

しかし私から見た祖母と、母から見た祖母は違っているようでした。


母によると義理の姉ばかり構う人だったそうです。

 

この義理の姉という人は長男のお嫁さんで、母はその長男とは20ほど歳の差がありました。

 

祖母の家は農家で畑仕事は長男が中心、家の中のことは長男のお嫁さんが中心になって生活していました。

 

祖母自身もそのようにして暮らしてきていました。

 

 

 

母がまだ学生の頃、自分も何か手伝おうと畳を雑巾で拭いたことがあったそうです。


するとそれを見た祖母は怒ったそうです。

 

「畳の拭き方も知らないのか」

 

そんなことを言うなら教えてくれればいいのにと、母は納得がいかなかったようです。

 

それでどうなったのかと聞くと、どうにもなっていないと言うのです。

 

拭き方を教えてもらうこともなければ、反論もせずただ黙っていたそうです。

 

ただ、その事をすごく恨んでいるようでしつこいくらいに口にしていました。

 

 

 

そして祖母には水子がいました。

 

母に兄弟は8人いましたが、そのうちの2人は水子でした。


水子はお墓の中に入れてあげられず、墓石のすぐ隣に埋葬していました。

 

するとその場所を兄が知らずに踏んでしまい、祖母が怒ったそうです。

 

兄がまだ3歳か4歳くらいの頃のことだったそうです。

 

水子が埋葬されていることは母自身も知らなかったし、もちろん私たち兄妹も知りませんでした。

 


そんなに怒らなくたって、知らなかったんだから仕方ないじゃない、と思ったそうですが母は黙っていたそうです。

 

 

母はなぜか肝心なところで言葉を言わない人でした。

 

 そして、自分が言えなかった不満を全て私にぶつけていました。

 

 

 

自分は末っ子だったから構ってもらえなかった。


料理も教えてもらっていない。


義理のお姉さんには家の中のことを何でも教えてやっている。


義理のお姉さんの方が可愛いから贔屓をしている。

 

自分は何もしてもらっていない。

 

 

農家である上に兄弟が自分を含めて6人。

 

末の子供である母にどれだけの時間をかけられたかというと、難しい面もあったかと思います。

 

なので母にも言い分はあると思います。

 

そして祖母にも祖母なりの言い分があったかもしれません。

 

 

 

でも、母は気付いているんでしょうか?

 

祖母が母にしたように、母もまた私に対して同じことをしています。

 

 

義理のお姉さんは兄、母は私です。

 

 

そして、そのことに気が付きましたが私も黙っています。


理由は母と違うかもしれません。

 

私が母に何も言わないのは、母に何を言っても黙っているだけだと知っているからです。

 

 

子は親を映す鏡だと聞いたことがあります。

 

まさにその通りだと思いました。

 

 

 

 

よくわからない人

キンセンカの花言葉、寂しさ

 

いつだったかはもう忘れてしまいましたが、私は母に離婚を勧めた事がありました。

 

勧めた理由は「父が暴力を振るうから」ではありません。

 

ただ夜遅くまで隣近所に罵声が響くほどうるさかったのと、喧嘩の後泣きながら私の布団に入ってくる母がとても鬱陶しかったからです。

 

 

「そんなに喧嘩するくらいなら離婚しなよ」

 

そう言いました。

 

母は黙っていました。

 

「毎日喧嘩ばっかりじゃん」

 

黙っていました。

 

返事をしない母に少し苛立ちを感じながら

 

「いいから離婚届取ってきてよ」

 

私の口調がきつくなっても黙っていました。

 

私は呆れました。

 

「わかった。離婚届は私が取ってくる」

 

本気でした。

 

 

 

別に母を救いたいとか、可哀想だと考えたわけではありません。

 

ただ布団に潜り込んでくる母が気持ち悪かっただけです。

 

 

母はここで初めて私の言葉に反応しました。

 

「それは、ちょっと待って」

 

 

 

私にとって母はよくわからない人でした。

 

つかみどころがない、というか何を考えているのか分からないというか。

 

毎日喧嘩することをおかしいとは思っていませんでした。

 

ですがこれだけ喧嘩をしても離婚しない、したくないというのはどういう気持ちなんだろうと当時は本当に不思議でした。

 

 

 

それから後に話を聞いていると、どうやら母は人目を気にして依存するタイプの人でした。

 

 

結婚しないことは恥。

 

離婚は恥。

 

離婚すると相談できる人がいなくなる。

 

 

こう考えていました。

 

 

 

そもそもなぜ父と結婚したのかというと、私の祖母から

 

「お前は結婚なんかできん」

 

そう言われて頭にきたそうです。

 

その時ちょうど職場の同僚であった父の姉からお見合いの話をもらい、結婚したそうです。

 

 

お見合いを否定するつもりはありません。

 

私が疑問なのは、「頭にきたから結婚した」と言う理由がわからないのです。

 

 

 

次になぜ離婚しなかったのかと言うと

 

「周りになんて言えばいいの。恥ずかしい」

 

だそうです。

 

 

母の言う「周り」とは親戚関係のことらしいのですが、親戚にも離婚を経験している人はいました。

 

「周り」の親戚とも法事でもない限り連絡すら取っていませんでした。

 

毎晩お互いを罵り合う喧嘩を、隣近所の方に知られるほうがよっぽど恥ずかしい気がします。

 

 

 

そして一番わからないのが相談できる人がいなくなる、ということです。

 

これは地域の役員のことだそうです。

 

毎年、地域の組費を集めたり行事だったりを持ち周りで担当することになっていたのですが、そのことを相談したかったそうです。

 

 

家事、育児にすら参加しない父がなぜ相談に乗ってくれると思ったのか。

  

話せば殴られるのに何を相談できると考えたのか。

 

それが分かりません。

 

 

 

ですがこういうところが「この人らしい」と思いました。

 

人目を気にするのに夜中に大声で喧嘩する。

 

自分に暴力を振るう父を当てにする。

 

 

そして母の言葉の中に私たち兄妹のことが 入っていなかったところも「この人らしい」と思いました。

 

関心があるように見えた兄ですら、母の頭の中には入っていませんでした。

 

 

私たち兄妹は二の次、三の次にも入れていませんでした。

 

 

 

 

冷めた子供

冷めた心

 

毎日のように喧嘩をしていた両親でしたが、部屋は同じ部屋を使っていました。

 

家は小さかったですが一軒家で、部屋数も居間を除いて三部屋ありました。

 

小さい頃は家族で一緒に寝ていましたが、確か小学校の三年生頃になると私たち兄妹にはそれぞれ部屋が与えられました。

 

 

私にとってはうれしい事でしたが、不思議なことでもありました。

 

三部屋あるのだから喧嘩をするくらいなら両親が別々の部屋に居ればいいのにと思っていました。

 

 

そんな母は父との喧嘩が終わった後、私の布団に潜り込んできて泣くようになりました。

 

 

私はそれがとても鬱陶しかった。

 

布団に入ってくるのは決まって私の方でした。

 

なぜ可愛がっている兄の方へ行かないのか不思議でした。

 

普段は見向きもしないのに都合のいい事だと子供ながらに思っていました。

 

 

 

私は暴行を受ける母に同情する心なんて全くないほど冷めた子供になっていました。

 

 

 

 

 

シロツメクサの花冠

 

シロツメクサ

 

子供の頃、花冠を作ったことはありますか?

 

シロツメクサの花冠です。

 

私の周りの女の子たちはみんな作れていました。

 

男の子グループで遊んでいた私は作る機会がありませんでした。

 

どちらかというと鬼ごっこだったりザリガニを取りに行ったりで、遊ぶ内容が違いました。

 

男の子たちと遊ぶのも楽しかったけれど、正直なところ花冠だけはずっと作ってみたかったです。

 

だけど作り方がわかりませんでした。

 

 

 

どういう流れでそうなったのかは覚えていません。

 

ですが、お隣の奥さんの娘さんが花冠の作り方を教えてくれました。

 

「こうやって作るんだよ」と近所の公園で一緒に作ってくれました。

 

下手くそな出来栄えでしたが、娘さんが手を加えてくれてそれなりのものができました。

 

うれしかったです。

 

 

だけど何か違和感を感じました。

 

女の子たちは誰から教わったんだろう?

 

お隣の娘さんは女の子たちとはほとんど遊んではいなかったはずです。

 

では誰に?

 

 

お母さん、でしょうか?

 

お姉さん、でしょうか?

 

 

ですが誰から教えてもらったかどうかはそこまで気にすることではないような気がしました。

 

実際、私は花冠の作り方は奥さんの娘さんに教えてもらいました。

 

そして花冠ではありませんでしたが、兄たちからは別の遊びを教えてもらいました。

 

 

ずっと何かの違和感を感じたまま忘れてしまっていましたが、ある時不意に気が付きました。

 

 

違和感の正体は公園にいた家族でした。

 

 

家族みんなでバドミントンをしたり、ブランコに乗ってお父さんやお母さんに背中を押してもらったり。

 

 

私の家にはそれがありませんでした。

 

そのことに気がついた時、私はすでに成人していて「なるほど」と思いました。

 

特別悲しくもなかったし、何か思うこともありませんでした。

 

 

ただ納得しただけです。

 

 

 

 

削る対象

勿忘草の花言葉「私を忘れないで」

 

兄と一緒に育っていくにつれて、気がついたことがありました。

 

私より兄の方がものを持っている。

 

小学校の5年生くらいまでお小遣いはありませんでした。

 

ですが気が付くと兄は何でも持っていました。

 

兄は両親にとって最初の子供ですから当たり前と言えば当たり前かもしれません。

  

 

 

兄は私より一つ上なので、最初は兄も私と同じ年くらいからもらっていたのかと思いました。

 

ですがそれにしてはものが多かったように思います。

 

よくよく考えれば、気がついた当初ではなくもっと小さい頃からものを持っていました。

 

ミニ四駆も何台も持っていましたし、プラモデルも漫画も、毎月500円のお小遣いでは買えない量を持っていました。

 

 

ある時兄が母にものをねだっているところを見ました。

 

母はあっさりと財布を取り出しました。

 

「あぁ、そういうことか」

 

 

私の持ち物は兄のお下がりがほとんどでした。

 

おもちゃは何でも兄が使い終わった後のもので、もちろん洋服もお下がりでした。

 

髪も短かったので兄の洋服を着るといつも男の子に間違われていました。

 

そのことに少しの不満は持っていました。

 

 

もしかしたら私もねだれば買ってもらえたのかもしれません。

 

ですがそれはしませんでした。

 

自分の家が裕福でないことは分かっていたからです。

 

 

確かに母は兄に甘いところがありました。

 

父はこの時点でも完全に私たち兄妹に無関心であるのに対し、母は兄に惜しむ、という事をしなくなっていました。

 

兄は成績も良かったですし、愛想も良く、話し上手でおもしろい子として学校の先生や親戚、近所の大人に好まれる子供でした。

 

一方、私はというとそんな兄にくっついて回っているだけのおまけでした。

 

 

母はそんな兄を自慢に思っていたのかもしれません。

 

 そして家計を預かる母としては削るところを考えたと思います。

 

 

 

 

子供でも見ているところは見ています。

 

 

私は兄との差を感じました。

 

 

雛人形

紫のクロッカスの花言葉|愛の後悔

 

私の家には五月人形がありました。

 

ケースに入れられた人形は兜と鎧を身につけてポーズを取っていました。

 

相場がどれくらいのものかは分かりませんが多分普通の価格だと思います。

 

 

それから鯉のぼりもありました。

 

小さなものではなくて、本当に風にたなびかせるくらいのものでした。

 

一軒家だったので鯉のぼりを設置するスペースはありました。

 

 

 

私はまだ幼かったですが、幼稚園や学校に行っていたので節句のことはわかっていました。

 

どちらも男の子の節句で飾るものです。

 

ですが私の家に端午の節句は来ても桃の節句は来ませんでした。

 

子供ながらに不満はありました。

 

私だけがない。

 

雛人形をねだったこともありましたが、返事はいつもそっけないものでした。

 

だからと言って、そのことを誰かに話したりすることはありませんでした。

 

話す相手もいないし、話したところでどうにもならない事です。

 

 

いつの歳の事だったかお隣の奥さんから雛人形をいただきました。

 

男雛と女雛が対になっているものでした。

 

子供の両手に乗るくらいの大きさで素焼きの土に着色された人形です。

 

譲ってくれたのか、もしかしたら買ってくれていたのか、それはわかりません。

 

 

 

ですが、私はその雛人形をひな祭りの日に地面に叩きつけて割りました。

 

何がきっかけだったのか。

 

何を思ったのか。

 

思い出せません。

 

ですが怒っていたことだけは覚えています。

 

衝動的だったのも覚えています。

 

お隣の奥さんがこのことを知ったのかどうかは分かりません。

 

奥さんはその後もいつも通り接してくれていました。

 

 

 

私はこうして人の好意を無下にする子供でした。